“可愛くない女”を地で行く私、はあの顔がどう見ても中学生じゃないことで有名な真田弦一郎に怒鳴られても泣かなかったという武勇伝がある。
そのことで神の子幸村精市に異常に気に入られ、立海大付属中テニス部のマネージャーにされたのが一年の時。
あっと言う間に月日は経ち、三年の夏休み。
この三年間一度も泣かずに通してきた私に、この夏かなりのピンチが訪れていた。
「、次はこれも頼む」
「はい…」
この春赴任してきた体育教師の中州明は、そのテニスセンスを買われこのテニス部の副顧問に就任した。
だがしかし、奴にはある問題があったのだ。
奴はセクハラ魔で、一年マネージャーも二年マネージャーも泣かされている。
三年の私は最後の標的と言うわけで、個人的に呼び出しをくらったり、何故か体育教官室の片付けを命じられたりしている。
正直な話かなり嫌だ。キモイし。
でも誰にも言えずにいた。
教師に逆らうだなんて一介の生徒には出来っこないのだ。
「はー…」
今日も今日とて命じられた倉庫の片付けが終わり部活に戻ってきた。
ため息をついているとポンと肩を叩かれ振り向けば幸村がそこにいた。
「お疲れ様、」
「幸村…」
「最近毎日だよね、中州の頼まれごと。昨日はゼッケンの洗濯だったっけ」
「う、うん」
「ねえ」
「何?」
「俺に、何か隠し事してない?」
「し、してないよ?何で?」
「…そうか、ならいいんだ。でも何かあったならいくらでも聞くからね」
「うん、ありがとう、幸村」
練習に戻る背中に口パクでありがとうと伝える。
幸村はきっと気付いてるんだろう。
心配そうな目が物語っていた。
でも何も言わずに居てくれるその優しさが嬉しかった。
「あ、先輩!おはようございまっす」
「赤也!また遅刻?」
「へへへ…昨日遅くまでゲームやってまして」
「早くアップして参加しないと真田の鉄拳が飛んでくるよ〜?」
「げぇっそれだけは勘弁ッス!」
「ほらほら、早く行ってきなさい」
「はーい。あ、でも先輩、一個聞いていいッスか」
「ん?」
「最近、何かありました?」
ジョギングに行く体制のまま赤也は真面目な顔で聞いてくる。
さっきまでここにいた幸村と全く同じ問い。
赤也にまで気付かれてるなんて思ってもみなくて背筋に冷や汗が伝った。
「何、で?」
「いや、先輩達が最近先輩の様子がおかしいって言ってて。先輩元気ないからみんな心配してるんスよ」
「…何もないよ。大丈夫」
「…そうッスか?」
「うん」
赤也に向けて、笑顔を作る。
笑えてるかはわからなかったけど。
みんなに心配かけてただなんて、自分のことでいっぱいいっぱいで全然気付かなかった。
マネージャー失格だ。
赤也の真っ直ぐな視線が痛くて思わず俯いてしまった。
「先ぱ…」
「」
不意に背後からかけられた声に肩がびくりと震える。
心配して肩に手をかけようとしていた赤也にもその振動は伝わってしまったようでびっくりした顔で私を見ていた。
振り向けば、そこには。
「中州…先生」
予想通りの姿があって。
「体育教官室の片付けも手伝って欲しいんだが」
「あ…はい、今」
「っ先輩!」
行きたくない気持ちを代弁するように重たい足を無理に動かして一歩踏み出す。
その途端に私の腕は後ろにグンと引っ張られた。
「赤也…?」
心配そうな焦った顔で赤也が首を振る。
唇は 行 く な と動いた。
その言葉通りに行かずに済むならばどれだけいいだろう。
そんな風に思いながら私は赤也の手をそっと外した。
「先ぱ…!」
「ちょっと行ってくるから、幸村達に言っといてくれる?」
笑顔を作って、背中を向ける。
背後から呼びかけられる赤也の声に後ろ髪を引かれながら私は体育教官室に走った。
「先輩!!」
「んー何じゃ赤也、来てたんか」
「今走ってったのだろぃ?部活中にどこ行ってんだ?」
「おかしいですね、彼女は真面目ですから無断で部活を抜け出すなんてことはしないはずですが」
「赤也!お前また遅刻しおって…」
「…すいません真田副部長、俺もちょっと抜けるッス!」
「なっ!おい待て赤也!こうなったら追いかけて…」
「待ってくれないか真田」
「幸村…」
「赤也を行かせてやってくれ。大事なマネージャーのためなんだ」
「の…?」
「風通しの為に、ドア、開けときますね」
「いや、閉めようか」
「先生…?」
「そんなに俺と二人きりは怖いか?」
最後の頼みの綱として開けておいたドアは無情にも閉められて、ドアを背にした中州ニヤニヤ笑いながら一歩一歩にじり寄ってくる。
「え、あの、先生?」
「逃げられると追いたくなるよな、人間って」
「や、やっぱり私部活に…!」
「逃がさないよ」
中州の脇をすり抜けてドアに向かおうと伸ばしたその手を他ならぬ中州に掴まれる。
信じられない強さで掴まれた腕は振り払うことが出来ずに、無情にも背中が机にぶつかった。
「一年マネージャーも二年マネージャーにもいいところで逃げられたからな、お
前だけは逃がさない」
「や…やだ…!」
掴まれた腕から伝わってくる熱いくらいの体温に鳥肌が立つ。
気持ち悪い。
吐き気とめまいがいっせいに襲ってくるのを感じながら私は気力を振り絞って体を離そうと暴れた。
「それに俺はお前が一番好みなんだ」
それでもお構いなしに中州は近寄ってくる。
嫌だ、
誰か、誰か、誰か!
「やだ、やだやだやだやだやだっ!…っ赤也!!」
迫ってくる体にぎゅっと目を閉じて、叫んだ。
すると。
「中州!!テメェ先輩を離しやがれ!!」
乱暴な音を立ててドアが開かれて、飛び込むように入って来たのは名前を呼んだばかりの赤也で。
呆気に取られてる内に中州が目の前からいなくなった。
けたたましい音を立てて吹っ飛んだ中州が床に倒れ込んでいる間に赤也が私の腕を掴んで走り出した。
「先輩、こっち!」
「待てっ切原貴様!」
追ってくる中州を撒くには私の足は遅すぎる。
テニス部レギュラーについていけるほどの脚力も持久力も元よりないのに中州との事でガチガチに緊張している足は更にスピードを遅くした。
チッと舌打ちの音が聞こえて、先輩ちょっとスイマセンと謝られたと思ったらふわりと体が浮いてあっと言う間に赤也に抱き上げられていた。
「あ、赤也!」
「しっかりつかまってて下さいねっ」
赤也はさっきより早いスピードでテニス部の部室まで走った。
驚いた顔したレギュラーが見えたと思ったら赤也はそのまま一直線に部室に駆け込んだ。
鍵を閉めた瞬間に崩れ落ちる。
荒い息を吐きながら私を下ろしてくれたと思ったらそのまま抱きすくめられる。
「赤也…?」
「先輩っ無事ッスね!?何もされてないッスね!?」
「うん…大丈夫だよ、赤也が助けてくれたから」
「間に合って、良かった…」
ぎゅうっと抱き締める力が強くなる。
苦しい、と言おうとした瞬間にドアがドンドンと叩かれて私達はびくりと肩を震わせて離れた。
「切原!!出てこい!」
「中州だ…」
一気に血が下がるのを感じた。
ぎゅっと赤也のユニフォームを握り締めて青ざめてしまった私を赤也が今度は優しく抱き締める。
ポンポンと背中を叩かれて大丈夫、大丈夫と呟かれて泣きそうになった。
「中州先生、俺達の部室に何のご用事で?」
ドアのすぐそばから聞こえた幸村の声に私達はハッとした。
「幸村…」
「シッ先輩」
赤也の指が唇に当てられて、大人しく耳をそばだてて動向を見守った。
「幸村、部長なら切原達をつまみ出せ!アイツは教師を殴ったんだぞ!」
「それは先生が赤也に殴られるようなことをしたからじゃないんですか?」
「なっ…」
「赤也は確かに遅刻はするし成績もよくありませんが理由もなく殴るような奴じゃありません。
二年間俺は見て来ました。
赤也が先生を殴ったのは先生がさんにいかがわしいことをしようとしていたから、そうですよね?」
「何をふざけた事を…!」
「残念ながら証拠はあるんですよ」
「何!?」
「報道部が、校長の許可を取って秘密裏に体育教官室に監視カメラをセットしていたんです。
あなたに沢山の女子生徒が泣かされていると密告があって。
ご存知なかったでしょう?」
「あ…ああ…あああ…っ」
「あなたの教師生命は終わりです、とっととここから立ち去っていただきましょうか」
「くそっ…!くそっ幸村…!幸村ぁぁぁ!」
「愚か…だな」
遠ざかって行く中州の声に私達は事の決着が着いたのを感じた。
こんこん、とノックされて鍵を開ければ幸村がそっと顔を覗かせる。
「?大丈夫?」
「うん、ありがとう…幸村」
「何言ってるんだ。部員を守るのは部長として当然だろ?」
幸村は綺麗に笑いながら私の頭を優しく撫でる。
その手がそっと頬に寄せられて安心したように息を吐いた。
「でも本当に無事で良かった…。赤也、よくやったね」
「…ッス」
「、もう安心して大丈夫だからね。中州は近い内に解雇される」
「うん…」
「じゃあ俺は先に部活に戻るから。赤也、ちゃんとを慰めてあげるんだよ」
幸村はそう言って再びドアを閉めて出て行ってしまう。
赤也に向き直れば赤也は照れたように頭をポリポリ掻いていた。
「赤也」
「はい」
「本当に本当にありがとう。赤也がいなかったら私…」
「あの、先輩」
「何?」
「もう泣いてもいいッスよ」
「…え?」
「部室には俺しかいないし、俺も言いませんから。…怖かった、でしょ」
そっと赤也の手が髪に触れる。
優しく、ぎこちなく撫でられるその感触に思い出したように涙が溢れた。
「こわ、かった。にげられなくて、手、つかまれて、まっかで、いたくて、まっか でっ…!」
「うん」
「こわ、かった、よっ赤也ぁっ…!」
思い切り赤也の胸の中に飛び込む。
うわんうわん泣く私を赤也はぎゅうぎゅう抱き締めて、うん、うんと聞いてくれていた。
赤也の体温が優しくてあったかくて、すごく安心した。
「先輩?」
「っ…うっ…な、にぃっ…?」
「先輩は、俺が守りますから、ずっとそばにいますから」
「うんっうんっ…」
「大好きです、先輩。もう他の誰も先輩に触らせない」
「私もっ好きっ赤也ぁっ…」
唇にそっと柔らかいものが触れた。
あったかくて、やっぱり安心出来た。
助けて欲しいと思った時に浮かんだのは誰より何より赤也だった。
他の人の前で泣けなくても赤也の前なら泣ける。
中州に触れられるのはあんなにも気持ち悪かったのに、赤也なら大丈夫だった。
それがどんな気持ちからなのか、今ならはっきり言える。
赤也の事が好きなんだって。
「赤也、大好きっ…」
「俺も先輩が大好きッス」
にこって笑った赤也に釣られて私も笑った。
君を泣かす事なかれ
(誰が相手でも許さない)